今日はまっすぐ思いっきり当たっていきます。よろしくお願いします



大抵のスポーツ観戦は好きですが、大相撲はまるで興味のない私にとって、今回の八百長騒動は無責任に面白い。
公益法人の取り消しとか、3月場所開催どころか角界そのものの存亡の危機とか、関わる方々にとってはシャレにならない事態なので面白がっちゃ不謹慎なわけですが。

そもそも相撲取りって、朝稽古して、昼飯ちゃんこたらふく食って、あとは漫画読んで昼寝してるイメージ。
いくらなんでも暇じゃないのかな、と思っていたらとんでもない。


 >>すくい投げがベスト/八百長疑惑メール

↑おデブちゃんでおバカちゃんかと思っていたら結構複雑すぎて笑った。


昼寝も早々に、野球賭博の予想、ハンデやオッズの確認、賭け金の振込、負け分の精算打ち合わせ、星の売買の打ち合わせ、具体的な負け方の打ち合わせ、とやるべき仕事は山盛り。
漫画読んでゴロゴロしている場合じゃございません。

70万円にものぼる金の貸し借りと、それを補うための星での精算の実態。
十数人での星と金の混ざる貸し借りを把握し、その受け渡しや処理方法を綿密に打ち合わせしている姿は、従来の相撲取りのイメージを覆させられました。
これだけ複雑なら直接会って人目を忍んで打ち合わせるより、リスク覚悟で携帯メール利用したいわ。
まじでエクセルとか駆使して管理してそう。


「メシ食って寝てるだけじゃないんだ」「やり手ビジネスマンww…」「痩せちゃうぞ…」などと世間を驚愕させ、ただのおデブでおバカでは相撲取りはつとまらない事を証明して見せました。


仲介人的存在の恵那司とか何だかインテリヤクザみたいに見えてきたし。

モンゴルやヨーロッパから来た融通の利かなそうな「ガチ」の連中、損得勘定もできない真性のバカ、ただのデブ、など「話のわからない連中」も混ざっているであろう業界で、この複雑なシステムを軽やかにこなしてたとは大したものです。

おデブだの、おバカだの言ってごめんなさい。
今後どうなっていくのか半笑いで見届けていこうかと思います。



 親父の命日



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毎年当たり前のように命日はやってきますね。
あなたが亡くなってもう9年。

昨年(2010年)はあなたがこの地で開業をして40年。
41年目を迎えても相変わらず一度も看板を出さず、やる気があるんだかないんだかですが、歯科医療とは何かを常に考え、あなたが1977年に始めた母親教室も健康教室も続けていますよ。

くだらない流行事に振り回されず、収益を上げることのみに終始せず、スタッフ一同何とか頑張っていますよ。
継続は力なり、です。

近代予防歯科センターも11年目に突入しました。
ムシ歯が一本もなく一度も歯医者に削られていない子供も増えてきましたよ。

今年は、今までちょっと避けていた事にも挑戦しようと思っています。
また来年報告しますね。



 スマートフォン元年て



すっかりブログもご無沙汰なアレでして。
明けましておめでとうございます。
今年はもう少しブログもちゃんと更新しようとか思ったりしている所存の所存です。

さて、TVで今年はどうやら本格的なスマートフォン元年とか言っておりました。
もちろんiPhoneがその火付け役であることは間違いないでしょう。

iPhone以前はブラックベリーとか小さなボタンの沢山付いたものがスマートフォンだったわけで。
そこに「我々は電話を再発明する」と言って登場したのがiPhone。
iPhone発表時のジョブズ師によるプレゼンテーションは英語よく分からないのにヨメと二人興奮しましたってば。
Apple主体思想のなんでも欲しがるオレを止めるためのヨメが、「私も欲しい」と我が家は完全なツインターボ状態。

大体それまでの携帯でメールもWEBも使わない私にとっては、ポケットに入るSafari(MacのWEBブラウザ)装備で、携帯アドレスではないMacのメールがすべて扱えて、そこにiPodが合体して、さらに電話もかけられるなんてヤバすぎる。

ジョブズ師は「消費者は自分が何を欲しいかなんて、それを形にして見せられるまでわからない」と言っておられるがまさに。
そうです。それが欲しかったんです。
しかも何だかとてつもなくクールなデザイン。携帯電話の表面にボタンがひとつだけしか付いていないなんて、その当時誰が思いつくというのだ。
日本での発売が待ち遠しくて、欲しくて欲しくてたまらなかった。


にしても、その後続機種のデザインのパクり方はどうにかならんもんか。
auのアレとか、docomoのソレとか。
アレだってソレだって、ちゃんとプロのデザイナーがデザインしたんだろうし、何ていうか恥ずかしくないのかな。
アレやソレが大ヒットしたとして、アレのデザイナーは「あの商品のデザインはオレがした」って堂々と言えるのかな。
同種の競合商品が、先行する成功者をパクるほど情けないことはないように思うんですがね。



パクり方としては「二匹目のどじょう」とかそんなレベルではない。むしろAVレベル。
「松友伊代」とか「たそがれ助兵衛」とか「セーラー服と痴漢中」とかそんなレベル。

いや、書いてみて思ったけどAVのほうがよっぽどセンスあるわ。



 自由になりたくないかい



自由になりたくないかい
熱くなりたくはないかい
自由になりたくないかい
思う様に生きたくはないかい
自由っていったいなんだい
どうすりゃ自由になるかい
自由っていったいなんだい
君は思う様に生きているかい
by 尾崎豊 -Scramblin’Rock’n'Roll


尾崎豊が登場したとき高校生だった私は、自由を求め続け、100円玉で買える温もりを手に、盗んだバイクで走り出し、大人たちの支配からの卒業を夢見ていた。
はい。もちろん冗談です。
どうもこんにちは。前回に引き続き最近読んだ本から面白かったことを備忘録として。

尾崎豊は好きですが、それはさておいてもやっぱり「自由」という言葉の持つ語感に、期待や素晴らしさを何となく感じていたわけです。
普通、自由という言葉からネガティブな印象は受けないですよね。
むしろ自由こそ人類の誰もが求める素晴らしいことのはず、ですよね。


「人間は自由の刑に処せられている」(ジャン=ポール・サルトル)

サルトルは自由について「何が正しいか解らないのに「好きにしろ」と放り出されてしまった不安定な状態である」と解釈したのです。
んー、何だかネガティブな雰囲気…。

どういう事かというと、
もし、神様なり国なり親なり学校が「これが真理です。これがあなたの生きる目的ですよ。」と明らかにしてくれれば、何も迷う必要はなかった。
そのとおりに生きていけばよい。それが真理であり生きる目的なのだから。
もちろんそれで間違うわけがなく生涯を過ごせる。
しかし実際のトコロ、神様も国も親も学校も何一つ真理は明らかにしてくれないし、生きる目的も知らせてはくれない。
真理は何か、何をすべきか、生きる目的は何か、何一つ明らかにされないまま、すべて自分で選択して生きていかなくてはならない。

そしてその選択は絶対的に「自由」だ。
猛勉強して大学を目指すもよし、進学せずミュージシャンを目指すもよし、プロスポーツ選手を目指すも、自分で事業を起こすも、特に何も目指さずネットやゲームをする毎日だって、全部自分で選んでいいのだ。

しかし自分で選択したものが正しいとは限らない。
そもそもどうすれば「正しい選択」が出来るかすら解らないのだ。
もしかしたら、その選択によっては10年後20年後とんでもない目に合ってるかもしれない。
たった一度しかない人生を台無しにしちゃうかもしれないのだ。

「あれ、何でオレこんな仕事してるんだろう。えっ?まさかオレの人生こんな程度?あとは老いて死ぬだけ?おかしいな、他の選択だってあったはずなのに…。」

でも誰にも文句は言えない。
なぜなら全部自分で選択してきたからだ。

その選択で失敗しようが後悔しようが、その選択の全責任を負わされる。

人間とは、頼んだわけでもないのに、何を選んでいいかわからない世界に突如放り込まれ、「さぁ君の人生なんだから、自由に選択して生きていきなさい。」と自由を強制され何事かを選択させられた挙句、失敗しても「だって自分で選んだんでしょ」と責任を負わされる宿命だというのだ。

自由は素晴らしいことだ、と誰もが思うけれど、実は自由ってのは選択する為の価値観や基準を疎かにすることで取り返しの付かない責任を追うことでもあるのだ。

自由っていったいなんだい
君は思う様に生きているかい



 言葉を想う。 その2



最近読んだ本でちょっと感動したので引用しながらとりとめなく。

「言語とは、差異のシステムである」(スイスの言語学者、ソシュール)

差異とは「違い」という意味だが、この場合「区別」と考えたほうが解りやすい。
ソシュール以前、言語とは「モノに張り付けられたラベルのようなもの」と考えられていた。
例えば毛がフサフサして4本脚で人懐っこく「わん」と鳴く「モノ」に対して、「犬」という言葉(ラベル)が張り付けられている、ということだ。

ソシュールは「言語とは、何かと何かを区別するためにある(差異のシステム)」と考えた。

これだけだと何だかよく解らないし、ラベル貼りつけと大した違いはなさそうだが、例えば道端に落ちている「石」はすべてカタチが違う。
が、我々はその一つ一つに名前をつけない。
3つほど拾ってきて、一つずつさして「これは何?」と順番に聞いたところで、すべて「石です」と答える。
3つまとめて「石」だ。

しかし、「ミカンとリンゴとメロン」であればそれぞれを「区別」して呼ぶだろう。
私たちは「ミカンとリンゴとメロン」は「区別」して呼ぶ「価値」と「必要」を認めているからなのだ。
もし「ミカンとリンゴとメロン」のいずれも食さず、興味もない民族が居たとすると、3つひっくるめて「何かの実?」もしくは「全部、有機物の塊だね」という言い方をするかもしれない。

彼らは「ミカンとリンゴとメロン」を区別して呼ぶ必要と価値を持っていないので、それに相当する言葉を持たない。
「いやいや、ナニ言ってんの。全然カタチも色も匂いも違うでしょ?」と言ったところで、先祖代々生まれた時から「ミカンとリンゴとメロン」を食べない人にとって3つの果物の違いなど、私たちにとっての「石の違い」に過ぎない。
私たちも「石だってよくご覧よ、カタチも大きさも色も違うじゃない」と言われたら困ってしまう。

つまり言語は「モノがあるからそれに対応する言葉が生まれた」のではなく、「区別する価値があるから、その区別に対応する言葉が生まれた」ということだとソシュールは考えた。

日本語では「マグロ」と「カツオ」を別の言語で表現するが、英語では両方とも”tuna:ツナ”だったり、さらに日本語では「蝶」と「蛾」を区別するが、フランス語では両方とも”papillon:パピヨン”だったり。

「えー、ぜんぜん違うじゃん」と言ったところで「まぁ、言われてみれば違うけど大した違いじゃないでしょ」ということなのだ。
逆に英語圏の人達は、うさぎを”hare(ヘア=野うさぎ)”と”rabbit(ラビット=うさぎ)”と明確に区別し、「どっちもうさぎじゃん。何?違うのは色?」という日本人を「何で?全然違うのに…」と驚くのだ。

育ってきた文化(価値観の基盤)が違うと、それぞれの価値観の基盤に沿って「何と何を区別するか」が染み付いており、その価値観の体系がそのまま言語の体系として目に見える形で表現されている。

「価値」があるから他と区別するために「言葉」が割り振られているとすれば、区別する「価値」のないものは「言葉」が割り振られない。
言葉が割り振られない「モノ」の「存在」をどう説明すればいいのか。

「犬」を他と区別する価値のあるものとして言葉を割り振った人間という生物だけが地球上から消滅して、果たしてその後の世界に「犬」という「モノ」は存在しているのか。



 自分の子供



先日、中学生の頃の同級生が地元に帰ってきたので呑んだ。
そこに居合わせた二人は新米パパなので、当然子供の話で盛り上がる。
可愛くて仕方がないのだろう。実に嬉しそうに話す。
自分に子供がいないのである意味で羨ましく微笑ましく思いながら、やはりドコか覚めた頭で話を聞いてしまう。

そして最近では野田聖子議員の体外受精のニュース。

子供が欲しい。
これはどういう事だろうか。
考えてみると不思議なことである。

子供が欲しいのであれば、他人の子供、親のない子供をもらってきてもいいはずである。
しかし多くの場合そういう選択をしない。
不妊治療なり代理出産なり体外受精なり色々とややこしい問題を乗り越えて、辛い思いをしながらも「自分の子供」が欲しいのである。
自分の子供でなくてはダメなのである。

当たり前だ、と言われそうだが「人は自分の子どもが欲しい」のである。
それはごく自然なことなのだという。

自分の子供が欲しいということは血縁関係が欲しいということである。
「血縁」が人間にとっての「価値」ということになる。

人が自分の遺伝子を残そうとするのは生物学的な要請なのか、それとも自己性や魂の永劫的な存続という宗教的な要請なのか、いずれにせよ「自分の痕跡」を残すことを欲しているのではないか。
自分の痕跡を残すことを欲するというのは「自己への執着」と言える。
執着することは自然ではない。

自分の子供が欲しいというのは「自然」なのか「執着」なのかわからない。
いや、その前に「自然」ということすら人間が生み出した概念であって、人間が存在しなければ「自然」もないのだけれど。

そして当たり前のことだが、自分の子供は自分ではない。
自己の分身ですらなく見事に他人である。



 時間がどうした



最近我が家のイロイロが壊れている。
DVDプレーヤーが壊れ、テレビが壊れ、そして壁に掛けてある時計も壊れた。

壁に掛けてある時計が壊れてから、一日にどれだけ時計を見ているのかを思い知った。
試しに家でも職場でも壁に掛けてある時計を外してみてください。
結構な回数時計を見ているコトに気づくし、あるべきトコロに時計が無いとかなりのストレスです。

「時間と空間の直観形式によって、人は様々な現象を認識できる」と考えたのは哲学者のカント。
現象を認識し思索するうえでは、時間と空間が直観として理解出来ていることが前提なのだ。

実は時計がなくても生きていくには困らない。
時計は栄養になるわけでも、雨風をしのげるわけでもない。

しかし社会生活はまともに営めなくなってくる。
人との約束は時間があって初めて成り立つのだから。

生きるためには不要だが、生活のために必須であると言える。

あらゆる生物の中で過去・現在・未来という概念を持っているのは人間だけ。
誰もが当たり前に時間を理解してると思い込み、過去に思いを馳せ、未来に期待し、現在を過ごす。

しかし本当に過去はあったか?未来は必ず来るか?「いま」とは一体いつか?など、実は説明するのはかなり厄介だと考えている人は少ない。
なぜ時間があるのか、時間は本当に流れているのか、実はよく解らないのに生きていくにはまるで関係がない。
そして生活をするために時間を知ることは必須なのに、これとて時間に対する理解は必要ない。

昔の賢人はこう言っている。
「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」



 駒野と本田の差は案外こういうトコか



イロイロが未確認で憶測の域をでない情報を元に書かせていただきますが。

日本中に感動を与えたサッカー日本代表が帰国し短い休息の時を経て、それぞれの仕事場へと帰って行きました。
これからまた4年後に向けてそれぞれの仕事場で準備を始めるのです。

その束の間の休息、選手たちは沢山の番組に出演し取材も受けたことでしょう。
他人事ながらお疲れ様です。
中でも圧倒的に取材や番組出演依頼が殺到したのは本田圭佑であることは間違いありません。

100を超えるとも言われるオファーの中には「SMAP×SMAP」のビストロスマップ出演依頼(ギャラ600万!)もあったとか。(未確認ネット情報)
そのすべてを断り幼稚園や母校に無償でサプライズ訪問し、明らかに先を見据えた引き締まった顔でモスクワへと旅立ちました。(報道の通り)

それを知ったとき「すげえ!本田△(←今更意味書くのもアレですが「ほんださんかっけー」)」と、本田△が何かうっかり旅人の二の舞にならないか心配だった私は、イロイロを心のなかで謝ったものです。(まだ空港到着時のファッションと腕時計両手ハメあたりは油断なりませんが)


ところが、
そのビストロスマップにどうやら駒野が出演した模様。
もちろん観ていませんし、番組の内容も全く知りません。

ギャラが幾らとか下世話な話は置いといたとしても、何だかどうにも納得できないこの感じ。

今でも鮮烈に頭に焼き付いている美しいチームワークと予想を覆す感動の試合の数々。
そのラストシーン、それまで控えめに自分の仕事を黙々とこなしてきた駒野に突然スポットライトは当たりました。
あまりに辛く重い悲劇…。それをひとりで背負い込むことの無いようチームメイトは肩を抱き一緒に涙を流しました。

そしてそれはその悲劇を目の当たりにした全員の思いだったはず。

駒野のせいじゃない、誰も駒野を責めてなんかいない、感動をありがとう、みんながその言葉を胸に駒野を抱きしめようと両手広げて帰国を待っていたのです。
しかし殊の外、この男の立ち直りは早かった…。

涙をこらえて広げた両手の横を「オレ、立ち直ったす」「メールで胸張って帰ってこいって言われて」「PKあればまた蹴りたいす」と笑顔ですり抜けるヤツ。



えぇっと。あぁ、そう…。
まぁアレだよね、ホラ誰も責めてたわけじゃないしね。うん、立ち直ったならアレだよな。にしても立ち直るの速えな。
広げた手の立場がなくて、そのままノビでもして涙はアクビのせいにして誤魔化したいこの気持。
駒野が泣きながら謝る前に止めようと思っていたのに、というこの空回り。
ぶっちゃけ何だか半笑いでカチーンとくる軽い憤り。

まぁ、アレです。駒野さんには「別に今回のPKは責めてないけど、二度目はないからね」という台詞と共に「本田△が断ったSMAP×SMAP出てんじゃねぇバカ」「番組スタッフも本田△に断られて駒野を呼んでんじゃねぇバカ」と言わせていただきW杯のコトもこれにて終了とさせていただきます。



 アツかったW杯の主役は



51pypxb0ll_sl500_aa300_一ヶ月に及ぶ極上のエンターテイメントW杯も無敵艦隊スペインの初優勝で幕を閉じました。
日本の大健闘で本当に楽しめた一ヶ月でした。
また4年後。厳しい予選を必ずや突破して5大会連続出場とした2014年ブラジル大会を楽しみにしておきましょう。

振り返ってみれば今大会前には日本全敗だのブラジル優勝だのメッシの大会だのマラドーナかわいいだの言われておりましたが、終わってみれば主役はタコ。
メッシもカカもスナイデルもビジャもMVPのフォルランですら、タコに一歩及ばず。

 >>スペイン閣僚「神託タコ食べないで」!保護チーム派遣も

スペインではタコの保護に閣僚も動く。
マジでドイツに食われる前に救いだした方がいいでしょう。

それから参議院選挙。
TAWARAちゃん当選だって。
この女は油断ならないよ。
たしか昔にそんなコト書いていたなーと探したらありました。

 >>小便小僧の放言帖・2004.8.16

10年後には参議院議員になってるって書いていた。想像より4年ほど早かったか。
そんなんじゃタコには勝てない。



 世界を驚かす覚悟をみたか



延長を含めて120分間に及ぶ死闘。
日本代表は失点せずに戦い抜きました。
ただ1点が取れなかった。どうしても1点が遠かった。
そして無情なPK決着。
今大会試合を重ねるごと成長していった日本代表は、本当に誇らしく強く逞しく世界と戦いベスト16で美しく散りました。

今大会の選手たちは、世界との距離を必要以上に感じることもない、自分たちをむやみに卑下することもない、アジアにだって日本にだってフットボールはあるんだ、と世界に、そして我々に知らしめてくれました。

この試合中に長友・遠藤という今大会の主軸が2枚目のイエローカードをもらい、累積警告で次戦の出場はありませんでした。
もしここで勝ったとしても、その先はかなり厳しかったに違いありません。
それでもどうしても勝ちたかった。何としても勝たせてやりたかった。
本当にいいチームだったと思います。

泣きじゃくる駒野を抱き寄せ一緒に泣いているチームメイトを見たとき、サッカー観戦で初めて涙がこぼれ落ちました。

駒野の痛みをみんなが分かち合おうとしているように思えました。
選手たちは、PK戦で敗れたことよりも、ベスト8に進めなかったことよりも、このチームでの戦いが終わることを想い、涙を流しているように思えました。

駒野はこの試合のことを生涯忘れられないでしょう。
日本躍進で次々とヒーローが生まれるなか、駒野は目立たず静かに自分の仕事をこなしてきました。
駒野だけじゃなく私たちもこの先何十年とこのシーンを思い出すことになるでしょう。

ドーハの悲劇と同様日本サッカー界の大切な記憶として、いつまでもいつまでも駒野の涙は私たちの心に残るのです。
94年アメリカ大会の決勝で当時のイタリアのエース、バッジョがPKを外した時の映像のように。


今大会、日本は十分世界を驚かせました。
煌めくスタープレイヤーがいなくても、「全員で」「心ひとつに」「献身的に」「賢く」「走り続ける」ことで世界と戦えることを証明してみせたのです。
サッカーはフィールドプレイヤー11人と控えの選手、監督やコーチとスタッフ、そしてサポーターのチーム競技であることを改めて証明してみせたのです。



今日落ち着いてVTR見てみると駒野が外したとき岡田監督は微動だにしていませんでした。
もう一回言います。
顔がもう少しアレなら「抱かれたいランキング」に登場してもおかしくないカッコ良さでした。
ここからまだまだW杯は熱くなります。個人的には今大会のマスコット、マラドーナ監督をもう少し見ていたいですね。