7 月
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本日の素敵なPV
上手く考えられたものは美しい。
編集の技術的な云々じゃなくて、センスってこういうのを言うのだと思った。
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多くの人は「生死」の境目がどこかにあると思っているでしょう。
沢山の「死」に立ち会う医師は当然「生死」の境目が判る筈だと思われているでしょう。
私もずーっとそう思っていました。
でも実は「生死」の境目が判る人なんて医師も含め誰一人いないし、科学や理論でそれを定義する事も出来ません。
医師は死亡診断書に「死亡時刻」を必ず記載しなければなりません。
「ご臨終です」と言った時間や死亡診断書に記載される「死亡時刻」と、実体の「死」の時間は間違いなく別物です。
「生」と「死」の境目を知るためには、まず「生きている」とはどういうコトか、「死んでいる」とはどういうコトかの定義が出来なければなりませんが、コレが大変に難しく定義できる見込みもない。
法律上の様々な決め事のために「死亡時刻」は実際に記載されるし、その時刻を持って人は死んだと解釈されているのです。
生死の境目や死の瞬間、そして脳死も「言葉」を持ってしまった我々が創りだした概念に過ぎないのです。
誰もが普通の感覚で「死」を客観的に簡単に決められると思うでしょうから、臓器移植や脳死の問題が出てきて、じゃあいざ「死」を明文化しようとしたら、実は決められない事が判ってどうにもならなくなっているのでしょう。
今回衆議院で可決されたA案も、否決された残りの3案の中にも、実はどこにも正解はなかったのですから。
脳死に関しては、専門家(医師や科学者など)が専門的に(科学的側面から)「死」について議論していると思われがちですが、実のところ日本という共同体では、どうしたら社会が一致して「死」を納得できるかを話し合っていたように思われます。
これらは社会や共同体の長い歴史の中での明文化できない暗黙のルールのようなものにも関わってくるので、いざ明文化しようとすると揉めるのは当然でしょう。
日本では人工妊娠中絶は、さして大きな問題にはなりませんでしたが、アメリカでは現在でも大統領選挙の争点になるくらい揉めています。日本では今ひとつピンと来ない。
同じようにアメリカでは脳死に関しては最初から揉める事なくすんなり決まりましたので、何故日本が脳死でこんなに揉めているのか判らないのでしょう。
脳死は人の死である、と言うのは臓器移植がなければ決めなくても良かった「新たな死の概念」と言えます。
脳死と判定された瞬間「人は死ぬ」わけですから、そこにあるのは「死体」です。
その死体から「生きている臓器を取り出す」という不可解。
医学や科学技術の進歩により、我々は本来踏み入れてはならない領域に踏み出さざるを得なくなっているし、すでに後戻りも出来なくなっているように思います。