9 月
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言葉を想う。 その2
最近読んだ本でちょっと感動したので引用しながらとりとめなく。
「言語とは、差異のシステムである」(スイスの言語学者、ソシュール)
差異とは「違い」という意味だが、この場合「区別」と考えたほうが解りやすい。
ソシュール以前、言語とは「モノに張り付けられたラベルのようなもの」と考えられていた。
例えば毛がフサフサして4本脚で人懐っこく「わん」と鳴く「モノ」に対して、「犬」という言葉(ラベル)が張り付けられている、ということだ。
ソシュールは「言語とは、何かと何かを区別するためにある(差異のシステム)」と考えた。
これだけだと何だかよく解らないし、ラベル貼りつけと大した違いはなさそうだが、例えば道端に落ちている「石」はすべてカタチが違う。
が、我々はその一つ一つに名前をつけない。
3つほど拾ってきて、一つずつさして「これは何?」と順番に聞いたところで、すべて「石です」と答える。
3つまとめて「石」だ。
しかし、「ミカンとリンゴとメロン」であればそれぞれを「区別」して呼ぶだろう。
私たちは「ミカンとリンゴとメロン」は「区別」して呼ぶ「価値」と「必要」を認めているからなのだ。
もし「ミカンとリンゴとメロン」のいずれも食さず、興味もない民族が居たとすると、3つひっくるめて「何かの実?」もしくは「全部、有機物の塊だね」という言い方をするかもしれない。
彼らは「ミカンとリンゴとメロン」を区別して呼ぶ必要と価値を持っていないので、それに相当する言葉を持たない。
「いやいや、ナニ言ってんの。全然カタチも色も匂いも違うでしょ?」と言ったところで、先祖代々生まれた時から「ミカンとリンゴとメロン」を食べない人にとって3つの果物の違いなど、私たちにとっての「石の違い」に過ぎない。
私たちも「石だってよくご覧よ、カタチも大きさも色も違うじゃない」と言われたら困ってしまう。
つまり言語は「モノがあるからそれに対応する言葉が生まれた」のではなく、「区別する価値があるから、その区別に対応する言葉が生まれた」ということだとソシュールは考えた。
日本語では「マグロ」と「カツオ」を別の言語で表現するが、英語では両方とも”tuna:ツナ”だったり、さらに日本語では「蝶」と「蛾」を区別するが、フランス語では両方とも”papillon:パピヨン”だったり。
「えー、ぜんぜん違うじゃん」と言ったところで「まぁ、言われてみれば違うけど大した違いじゃないでしょ」ということなのだ。
逆に英語圏の人達は、うさぎを”hare(ヘア=野うさぎ)”と”rabbit(ラビット=うさぎ)”と明確に区別し、「どっちもうさぎじゃん。何?違うのは色?」という日本人を「何で?全然違うのに…」と驚くのだ。
育ってきた文化(価値観の基盤)が違うと、それぞれの価値観の基盤に沿って「何と何を区別するか」が染み付いており、その価値観の体系がそのまま言語の体系として目に見える形で表現されている。
「価値」があるから他と区別するために「言葉」が割り振られているとすれば、区別する「価値」のないものは「言葉」が割り振られない。
言葉が割り振られない「モノ」の「存在」をどう説明すればいいのか。
「犬」を他と区別する価値のあるものとして言葉を割り振った人間という生物だけが地球上から消滅して、果たしてその後の世界に「犬」という「モノ」は存在しているのか。

