10 月
10
本日の小林秀雄 〜美を求める心
見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。
ぼんやりしていても耳には音が聞こえて来るし、特に見ようとしなくても、目の前にあるものは眼に見える。
耳の遠い人もあり、近眼の人もあるが、そういうのは病気で、健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しいことだ。
頭で考える事は難しいかもしれないし、考えるのには努力が要るが、見たり聞いたりする事に、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。
見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです。
小林秀雄
見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。
見るとそれは菫(すみれ)の花だとわかる。
何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。
諸君は心の中でお喋りをしたのです。
菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。
菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。
言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かつて見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。
小林秀雄
なるほど、考えること同様、見ることも聴くことも難しい。
私たちは毎日何かを見て聞いて考えて生きている、と思っている。
しかし、見ていたか、聞いていたか、考えていたか。
生きていく理由は見付からぬが、何故死なないでいるのか解らない、そんな胸を締め付けられる悲しみを、美は少しでも和らげてくれるかもしれない。
考えること同様、見ることも聴くことも、手を抜かず「真善美」を探求し、魂の世話に努めたい。