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 本日の小林秀雄 〜美を求める心



見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。

ぼんやりしていても耳には音が聞こえて来るし、特に見ようとしなくても、目の前にあるものは眼に見える。

耳の遠い人もあり、近眼の人もあるが、そういうのは病気で、健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しいことだ。

頭で考える事は難しいかもしれないし、考えるのには努力が要るが、見たり聞いたりする事に、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。

見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです。

 

小林秀雄

 

 

見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。

見るとそれは菫(すみれ)の花だとわかる。

何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。

諸君は心の中でお喋りをしたのです。

菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君は、もう眼を閉じるのです。

それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。

菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。

言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かつて見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。

小林秀雄

なるほど、考えること同様、見ることも聴くことも難しい。
私たちは毎日何かを見て聞いて考えて生きている、と思っている。

しかし、見ていたか、聞いていたか、考えていたか。

生きていく理由は見付からぬが、何故死なないでいるのか解らない、そんな胸を締め付けられる悲しみを、美は少しでも和らげてくれるかもしれない。

考えること同様、見ることも聴くことも、手を抜かず「真善美」を探求し、魂の世話に努めたい。



 本日のお言葉



人間は、1枚の紅葉の葉が色づく事をどうしようもない。先ず人間の力でどうしようもない自然の美しさがなければ、どうして自然を模倣する芸術の美しさがありましょうか。

言葉もまた紅葉の葉のように自ら色づくものであります。ある文章が美しいより前に、先ず材料の言葉が美しいのである。

例えば人情という言葉は美しくないか、道徳という言葉は美しくないか。長い歴史が、これらの言葉を紅葉させたからであります。

小林秀雄

言葉では説明できない1枚の絵画や写真の美しさ、目で見る事も触る事も出来ない意識や存在の不可思議。

それらを言葉によってしか思索できないもどかしさ。

言葉について考えると止まらなくなる。

遠い昔、意識とともに与えられた言葉という人間の思索唯一の武器の美しさと魅力は何なのか?



 本日のお言葉



果たして他人(ひと)を説得する事が出来るものであろうか、もし説得できたとしたら、その他人(ひと)は初めから、説得されていた人なのではないだろうか。

小林秀雄

これは本当にそう感じる。

わかる人にはわかるが、何をどうしたって、わからない人にはわからない。

誰かが何かを言ったからわかったのではなく、その人は最初からわかっていたのだと、そんな風に思う事が多い。



 40歳の決意表明



人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれてくる。

彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものになれなかった。

これは驚く可き事実である。

小林秀雄

一体、現代人は、人間の覚悟というものを、人間の心理というものと取り違える、実に詰まらぬ癖があります。
覚悟というのは、理論と信念が一つになった時の、言わば僕等の精神の勇躍であります。

小林秀雄

自信というものは、いわば雪のように音もなく、幾時の間にか積もった様なものでなければ駄目だ。
そういう自信は、昔から言うように、お臍の辺りに出来る、頭には出来ない。
頭はいつも疑っている方がよい。難しい事だが、そういうのが一番健康で望ましい状態なのである。

小林秀雄

 

「ばかやろう、てめぇらとは覚悟が違う」

小林秀雄

 

何をどうあがいたって、私は私以外のものになれないのだ。
こればかりは、努力してどうにかなるものではない。

 

こと仕事に関して、私は本質的な問題を思索してきたつもりだ。

表面上の流行やテクニックなどに流される事なく、腰を据えて自分なりに本質の探究を続けているつもりだ。

 

若い頃はアツくなって、自分の考えをだれかれ構わずぶつけてきた事もあった。
今考えると、そうしないとフラフラ楽な方に逃げてしまうかもしれない、という自分なりの危惧があったのかもしれない。

要するに自信がなかったのだ。

 

今ならわかる。自信というものがお臍の辺りに積もるという表現も、今ならわかる気がするのだ。

そして、これからもこういう方法でしか仕事は出来ない。

そうしたいのではなく、それしか出来ないのだ。

 
金や他者や圧力に惑わされる事のない、「それしか出来ない」という清々しさ。
それは、まさに「理論と信念が一つになった時の、言わば僕等の精神の勇躍」というものか。

 

アンテナを張る、などと言う気味の悪い情報収集で、あっち行ったりこっち行ったり何の覚悟もなく、ただ年だけ重ねてしまったような連中が、私の仕事の評価をし、口を出すなんて耐えられない。

 

アンテナさえ張れば収集出来るような、ちょっと探せば見つかるような、たかが「情報」に何の価値があるものか。
自分の頭で、疑い続けて吐き気を催すくらい考えた末に積もる「知識」にしか価値なんてあるものか。

 

私も言ってやる。

「ばかやろう、てめぇらとは覚悟が違う」



 本日のお言葉。



自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ。

–小林秀雄

後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ。

–小林秀雄