* You are viewing Posts Tagged ‘言葉’

 40歳の決意表明



人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれてくる。

彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものになれなかった。

これは驚く可き事実である。

小林秀雄

一体、現代人は、人間の覚悟というものを、人間の心理というものと取り違える、実に詰まらぬ癖があります。
覚悟というのは、理論と信念が一つになった時の、言わば僕等の精神の勇躍であります。

小林秀雄

自信というものは、いわば雪のように音もなく、幾時の間にか積もった様なものでなければ駄目だ。
そういう自信は、昔から言うように、お臍の辺りに出来る、頭には出来ない。
頭はいつも疑っている方がよい。難しい事だが、そういうのが一番健康で望ましい状態なのである。

小林秀雄

 

「ばかやろう、てめぇらとは覚悟が違う」

小林秀雄

 

何をどうあがいたって、私は私以外のものになれないのだ。
こればかりは、努力してどうにかなるものではない。

 

こと仕事に関して、私は本質的な問題を思索してきたつもりだ。

表面上の流行やテクニックなどに流される事なく、腰を据えて自分なりに本質の探究を続けているつもりだ。

 

若い頃はアツくなって、自分の考えをだれかれ構わずぶつけてきた事もあった。
今考えると、そうしないとフラフラ楽な方に逃げてしまうかもしれない、という自分なりの危惧があったのかもしれない。

要するに自信がなかったのだ。

 

今ならわかる。自信というものがお臍の辺りに積もるという表現も、今ならわかる気がするのだ。

そして、これからもこういう方法でしか仕事は出来ない。

そうしたいのではなく、それしか出来ないのだ。

 
金や他者や圧力に惑わされる事のない、「それしか出来ない」という清々しさ。
それは、まさに「理論と信念が一つになった時の、言わば僕等の精神の勇躍」というものか。

 

アンテナを張る、などと言う気味の悪い情報収集で、あっち行ったりこっち行ったり何の覚悟もなく、ただ年だけ重ねてしまったような連中が、私の仕事の評価をし、口を出すなんて耐えられない。

 

アンテナさえ張れば収集出来るような、ちょっと探せば見つかるような、たかが「情報」に何の価値があるものか。
自分の頭で、疑い続けて吐き気を催すくらい考えた末に積もる「知識」にしか価値なんてあるものか。

 

私も言ってやる。

「ばかやろう、てめぇらとは覚悟が違う」



 開かれていたドア



物事の本質を探究したい。

あまりに身近で当たり前過ぎて、誰も深く考えないような事でも深く思考したい。

疑って、疑って、何かが納得出来るまで疑い続けてみたい。

しかし、やはりドコかで行き詰まる。

何をどう考えようとしていたのかすら見失う。

行き着く先は、何となく明後日の方向を向いている気もする。

 

哲学上の疑いにとらわれている人は、部屋の中に閉じ込められて、どういう風にして抜け出せば良いかわからない人に似ている。

窓から抜け出そうとしても窓は高すぎる。煙突は狭すぎて出られない。

そういうときに、もし百八十度うしろを向くと、ドアがはじめからずっと開きっぱなしだった事に気がつく。

哲学もこれと同じだ。

ウィトゲンシュタイン

 

 

なるほどね。

開いていたかもしれない。

 

だが、うしろに気がつかないのも確かだ。

いや、もしかしたら、わかっていて気づこうとしていないか、うしろを見ないようにしているのかもしれない。

何とか、この部屋から抜け出さなければ。

あの窓にまで届く梯子はどこかにないのか。

 

割と至福の時かもしれない。



 言葉を想う



例えば「犬」という言葉で、なぜ我々は「犬」を思えるのか。

なぜ「犬」という言葉から、その意味するところを理解できるのか。

「犬」という字や発音は、尻尾を振っている訳でもないし、「犬」にちっとも似ていないのに。

 

一体私はどうやって、いつ「犬」を理解したのか。

例えば「犬」をまったく知らない人に、どう教えれば「犬」を理解させる事が出来るのか。

とりあえず、近所の「犬」から一匹ずつ見せて教えるのか?

図鑑に載っている「犬」を教える?

それとも辞書を引く?

図鑑にも辞書にも当てはまらない「犬」なんて沢山いるわけだし、全ての犬を見せて回る事は不可能だ。

 

パソコンのモニタ上でみる「犬」という字は、単なるドットの集まり。

印刷されたり、紙に書いた「犬」という字は、インクのシミだ。

声に出す「犬」は単なる音列に過ぎない。

 

それなのに、「犬」という言葉から、誰もが「犬」を思ってしまう。

イヤでも思ってしまう。

思わないようにする為にも、まずは必ず「犬」を思わなければならない。

 

同じように「善い」という言葉から、「悪い」事を思う事は出来ない。

時代や文化などによって「善い事柄」「悪い事柄」は様々だろうが、いつの時代もどんな文化圏においても、「善い」という言葉は、誰にとっても等しく「善い」という意味であり、「悪い」を思い描く事はどうしても出来ないのだ。

 

言葉の持つ、この逃れ難さは何か。